読書日記 「私という運命」

「私という運命について」白石一文著/角川書店/¥1600
あまり小説は読まないのだが、白石一文だけは好きで、デビュー作「一瞬の光」からすべての作品を読んでいる。「私という運命について」は、白石の最新刊である。白石のことは、最初は友人に勧められて知り、「一瞬の光」を図書館で借りてきて読んだ。非常に感動した。白石の小説は、テレビドラマ化されるような、薄っぺらでオシャレな恋愛小説ではない。「生きることの意味」を追求する、これこそ、現代の正統派純文学だと思った。

人は、ほんとうにみずからの意志で自分の人生を選び取ることができるのだろうか-。恋愛、仕事、結婚、出産、家族、死……。大手企業に勤務するキャリア女性の29歳から40歳までの“揺れる10年”を描き、「運命」の不思議とその根源的意味を鮮やかに描いた書下ろし900枚、待望の刊行。20万部突破『一瞬の光』の著者がものした新たなる代表作!

白石一文の小説では、よく有名企業が実名、または明らかに特定できる表現で登場する。この小説の主人公「亜紀」の勤務する会社も、「大手企業」「元は電電公社下請」「本社は三田」とくれば、間違いなくNECである。その本社ビルの17階といえば、事業部営業であろう。なんだか懐かしかった。

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好きな音楽の紹介【邦楽編】

邦楽を聴く様になったのはわりと最近で、J-POPという言葉が生まれ始めた頃からである。学生時代までは洋楽かJAZZしか聴かなかった。J-POPという言葉が定着する以前にも、角松敏生など「フュージョン+ヴォーカル」のような曲は好きだった。それ系で登場した谷村有美さんのファンになり、何回かコンサートに行ったりもした。今の気に入っているアーチストは、中島美嘉、山崎まさよし、伴都美子くらいである。
ここで、今まで聴いてきたJ-POPの中から、とても気に入っている「ベスト6曲」を紹介したいと思う。「ベスト6」とはなんとも中途半端だが、7位以下をなかなか思いつかなかったので、仕方がない。ややマニアックかも知れない。
第1位 MOON CHILD / ICE
これは「ICE」というグループの「MOON CHILD」という曲である。アーチスト名が「MOON CHILD」ではない。また「ICE BOX」というアーチストとも混同しがちなので注意が必要だ。ラジオで流れていて“ひと聴き惚れ”して、当時レンタルCD屋をずいぶん探した。“ずっと友達のままでもいいと、いつも思っていた相手と、恋に落ちた”という詩である。最近、どうしてもCDが欲しくなり、この曲が収録されているベストアルバム「ICE TRACKS Vol.01」(1998)を、ヤフオクで手に入れた。同じアルバムに収録の「kozmic blue」という曲も、とてもよい。これを初めて聴いているうちに涙が出る人もいるらしい。
第2位 冬の終り / 松任谷由実
ユーミンは荒井由実時代も含めてけっこう好きだが、ベスト1というとこの曲だ。アルバム「TEARS AND REASONS」(1992)に収録されている。古き良きユーミンの曲調で、学生時代の恋の終わりを回想する詩である。
第3位 I WILL / 上田知華
なんだかよくわからず、どこで見つけたかもわからないが、好きな曲である。
第4位 TWILIGHT / 岡本真夜
岡本真夜はメロディーと声と歌唱力はいいのだが、詩の内容がイマイチだ。この曲の詩も、高校生の純情カップルの下校風景の一コマを描いた他愛ないものであるが、メロディーとアレンジがスバラシイ。アルバム「Pureness」(1996)に収録されている。
第5位 バレンタイン・イヴ / 近藤ナツコ
なぜこの曲がミリオンセラーにならず、バレンタインデーの定番曲にならなかったか、本当に不思議だ。アップテンポの憶えやすい曲で、歌唱力も抜群だ。今からでも口コミで世に広め、毎年バレンタインデーが近くなると、この曲があちこちで流れるようにしたいものだ。近藤ナツコさんは、今は荻窪のライブハウスなどで活動しているらしいので、一度行ってみようと思っている。
第6位 サイレント・イヴ / 辛島美登里
やっと誰でも知っている曲が出てきた。思いっきり暗い曲なんだけど、好きだ。確か吉田栄作と仙道敦子のトレンディー・ドラマ「クリスマス・イブ」のテーマ曲だったと思う。このドラマは毎週最後に「クリスマス・イブまで、あと○日」というテロップが出ていたのを憶えている。なつかしい。

四十肩ではなかった!

4月頃から、「謎の二の腕痛」に悩まされ、てっきり「四十肩」だと思い込んでいましたが、最近になって右腕全体がシビレることが多くなったので、これは別な病気ではないかと心配になり、やっと整形外科に行きました。結果、四十肩ではなく、「頚椎(けいつい)症性神経根症」というものでした。

シュウです……“けいついしょうせい しんけいこんしょう” 早口言葉みたいです…
こんな難しい病名を付けられると、なんだか自分が偉くなった気がするとです…

このような恐ろしげな症名ですが、秀峰の場合は軽症で、「病気」というほどのものでもないそうです。痛みに耐えかねるとき用に、頓服の痛み止めが出ました。
秀峰の「頚椎症性神経根症」とは何かと言うと・・・
①首の骨の第5番目と6番目の間にある椎間板(ついかんばん)が、加齢や首の不良姿勢、軽微な外傷、スポーツ傷害などによって退行変性(老化)する。
②それで首の状態が不安定になり、第5番目の骨が、安定姿勢を保とうとして変形して足を伸ばす。
③その突き出た骨の先っちょが、中枢神経(脊髄)から枝分かれした頚神経根(神経の根元)を圧迫して炎症を起こす。
④その炎症を起こした神経が、右腕の先端まで行く頚神経だった。
ということです。症状が酷くなると手術などが必要らしいですが、秀峰の場合、「頚椎牽引療法」というものを受けることになりました。これは、座った状態で、機械で頭を上に引っ張り上げるものです。6kgで10分間行いました。引き続き、この療法をマメに受けなければいけません。がんばって「首つり療法」に通います!

音楽の思い出話 【洋楽編】

ちょっとナルシスティックな記事です。
最近、むかしよく聴いた音楽のうち、特にお気に入りだった曲を、中古CDで探して入手して、パソコンでお気に入り曲集を作って、MP3プレイヤーで聴くのが、マイ・ブームです。そういった曲などを思い出話とともに紹介したいと思います。思いつくままに書いたので、時代考証が微妙にズレているかも知れません。アーティスト・曲名は、なるべくカタカナにしました。
秀峰が洋楽を聴くようになったのは、小学校5年の時、当時、AMラジオの文化放送でやっていた「電リク76」という番組がきっかけであった。その名のとおり1976年の頃だ。その番組でよくかかっていて、まずファンになったのは、オリビア・ニュートン・ジョンだった。生まれて初めてレコードを買ったのは、彼女のシングル(EPレコード)4枚だった。曲は「カントリー・ロード」「ジョリーン」「たそがれの恋」など。その頃の洋楽では、ベイ・シティ・ローラーズとかキッス、エアロ・スミスなども流行っていたが、秀峰はアメリカン・ポップスが気に入ったようで、カーペンターズなどを好んで聴いていた。78年頃、インベーダー・ゲームのブームがあったが、ゲームセンターでロッド・スチュアートの「アイム・セクシー」を耳にタコが出来るくらい聴いた。先日、これが無性に聴きたくなり、取り寄せようと思ったが、リミックス版しか入手できなかった。
中学生になって、アルバム(LPレコード)というものを初めて買った。それは、ビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」だった。ビリー・ジョエルとカーペンターズの代表的な曲は、今でもカラオケでよく歌う。この頃、ジョン・トラボルタ主演の映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が大ヒットして、ディスコブームが起きていて、その流れでビージーズなどはよく聴いていた。また、当時のディスコと言えばソウルだったと思うが、アース・ウインド・アンド・ファイヤーは好きだった。彼らの曲は、最近よくCMで使われているので懐かしくなり、「宇宙のファンタジー」なんかをカラオケで歌おうと試みたが、まったく歯が立たなかった。
高校に入ってからは、ヒット路線の洋楽にも邦楽に見向きもせずに、ひたすらジャズを聴いていた。スタンダード・ヴォーカルが中心だ。高校生がサラ・ボーンだのエラ・フィッツジェラルドだの聴いているんだら、ちょっとおかしなもんだ。だが、ジョン・コルトレーン(サックス)の「マイ・フェイバリット・シングス」には大いに感化された。それでマッコイ・タイナー(ピアノ)も好きになって、10年後に念願のライブ(ブルーノート東京)に行くことになる。生まれて初めて買ったCDは、ジャズピアノのケニー・ドリュー・トリオのベスト盤だった。
さて、80年代に入ると第3次ディスコ・ブームが訪れる。いわゆるユーロビートの黎明期である頃、秀峰も生まれて初めてディスコにデビューした。大学2年生の頃だ。と言っても、新潟の赤倉温泉スキーの時に、温泉街のホテルにあった即席ディスコであった。大ヒット中のA-HAの「テイク・オン・ミー」がかかってたのを憶えている。この曲はいわゆる「パラパラ」が初めて演じられるようになった曲だと聞いている。そして、デッド・オア・アライブの「ユー・スピン・ミー・ラウンド」とか、カイリー・ミノーグ、バナナラマ、シニータ、サマンサ・フォックスといったPWLレーベルの全盛となるが、秀峰は少し後になってから聴き始めたと思う。
都心のディスコに初めて行ったのは、六本木のロアビルにあった「リージェンシー」だ。ここは値段も安く初心者(?)に向いたディスコだった。あとは、日比谷と新宿にあった「ラジオシティ」はよく行った。踊りやすいユーロビートがかかるので、それ目当てで行ったものだ。この辺はディスコ初心者向けだが、わりと本格的なデイスコファンは、やはり「マハラジャ」「キング&クイーン」「シパンゴ」「Mカルロ」などに行っていたようだ。
秀峰にとって忘れてはならないのが六本木にあった「J・TRIP・BAR」だ。スカイラインGTSを駆って八王子から飯倉片町(路駐)まで飛ばして、朝まで踊って、明け方に中央自動車道を下るという元気な活動をしていた。よくかかっていたのがリック・アストリーの「トゥゲザー・フォーエバー」だった。テーブルだのグランド・ピアノに登って、へんちくりんなモンキーダンスもどきを踊ったものだ。その頃、新山下にあった「横浜ベイサイドクラブ」というのもクールだった。秀峰が行ったのは潰れる少し前で、客もまばらなフロアーにクリスタル・ウォーターズの「ジプシー・ウーマン」などがかかっていた。
80、90年代のディスコ音楽と親しんだ秀峰も、かの有名な芝浦の「ジュリアナ東京」の閉店とともにこの世界から足を洗う。六本木の「ヴェルファーレ」はついに一度も行くことがなかったし、ディスコがクラブと呼ばれるようになってからも行ってない。社会人になってからは、なぜか「J・POPS」に転向してしまった。カラオケブームのせいもあったろう。
洋楽の最も思い出深い曲となると、ディスコ行ってた時代、ハイエナジー系の大傑作、ホット・ゴシップの「ブレイク・ミー(イントゥ・リトル・ピーセズ)」である。この曲はつい先日やっと入手できた。失恋の曲で、それを聴いていた頃に大失恋をしたので、忘れられない曲である。