お釈迦様の命日

        願はくば 花の下にて 春死なん
 
                 その望月の如月の頃
                                    西行法師

西行は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人で、出家前の佐藤義清の名で大河ドラマ「平清盛」にも登場している。「望月の如月の頃」とは、2月の満月の15夜のことで、旧暦2月15日である。この日は、お釈迦様が入滅・つまり涅槃に入られた日(命日)であり、当時から「涅槃会」として釈迦の遺徳を偲ぶ習慣があった。西行も、お釈迦様の入滅した日へのあこがれを詠んだとおり、旧暦の2月16日に入寂したと言われている。

さて、釈迦の入滅した場所は、インド北東部、ネパールとの国境近くにあった古代都市「クシナガラ」という。仏教の4大聖地の一つである。80才で死期を悟った釈迦は、故郷に向けて最後の旅に出る。その途中のクシナガラの地で、沙羅双樹の間で横になり、入滅したと言われる。

秀峰は1999年に、ここ「クシナガラ」(現在のカシア付近の村)を訪れている。その時に、ちょっとした神秘体験をしているので、紹介したいと思う。横たわった釈迦像が安置されている涅槃堂という建物に入ったときのこと。我々は、仏教遺跡を巡る企画ツアーだったのだが、このツアーの一行が涅槃堂に入って間もなく、堂内の空中から金粉や金箔が舞い始めたのだ。かなりの量で、現物も持ち帰っているし、出現する瞬間が空中だったのをはっきりと見ている。堂内に貼られた金箔が剥がれたとか、誰かが撒いたとは考えにくい。そして、この企画ツアーに常連参加しているオジサンは、たいして驚きもせず、「仏様が喜ぶと、こういうことが起こるんですよ」と平然と説明していた。以前にも何回も起こったというのだ。う~ん、どういうことだったんだろう。でも、金粉が出現するのは、他の宗教でもよく語られる現象だから、本当にそういう奇跡っぽいことは、あるのかも知れないなーと思った。

天命に安んじて人事を尽くす

天命に安んじて人事を尽くす

清沢満之

この言葉は、「人事を尽くして天命を待つ」の単なるパロディーにも見えるけど、実は仏教の世界では良く知られた名句です。明治期の浄土真宗大谷派の僧侶である清沢満之の言葉です。意味は、読んで字の如く、天命に定められた範囲内でしか、人事は尽くせない、と言ったとことろでしょうか。浄土真宗の教えらしく、人間のなしうるものごとなど、殆どが宿業(過去生での所業)や仏のはからい、様々な縁(周囲の条件)によって決まってるのであって、個人が純粋に自分の能力・努力のみでなし得ることなど、ほとんどないと言っているのです。
この言葉の解釈で、浄土真宗の篤信者の亀井鑛氏は次のように読み下しています。

天命に安んじる限り、これまでにこうなってきた過去のことは、
「そうなるべくしてそうならずにいなかった、天からの賜りもの」と、
こだわりなく受けとめ、今こうしてここにある現在は「これでよし、ちょうどよし、自分の分相応」と素直に容認し、この先どうするかの未来については「結果は問わず、やれるだけやらせてもらう」に立つのが、本来の私のあり方なのだと提唱している。

少欲知足

江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、良寛の句に、大好きなものがある。

焚くほどは 風がもてくる 落葉かな

自分ひとり生きていくくらいの衣食は、自然と手に入る、というような内容。
この句を知ったときに、なぜかキリスト教の聖書の言葉が思い浮かんだ。次の部分だ(中略を含む引用)
マタイによる福音書第6章(山上の垂訓)より

だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。それなのに、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。野の花がどうして育つのか、考えてみなさい。働きもせず、つむぎもしない。明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのだから、あなたがたには、それ以上に良くしてくださるはずだ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようか、と言って思い悩むな。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは、明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

曹洞宗開祖道元禅師の弟子に懐奘という僧がいる。道元禅師の言葉を懐奘が記した「正法眼蔵随聞記」のなかで、道元は次のようなことを語っている。(水野弥穂子の現代語訳から秀峰が抜粋・編集)

「学道の人、衣食を貪ることなかれ」

仏道を学ぶ人は、衣食をむさぼってはならない。人はめいめい一生にそなわった食べ料があり、寿命がある。分を超えた食や寿命を求めても得られるものではない。出家人というものは、仏道を学ぶ功徳によって、命はもとより、食べ料も尽きることはない。
「学道の人、衣粮を煩はすことなかれ」
仏祖たちの中で、一人たりとも飢え死にし、凍え死にしたためしは、いまだかつて聞いたことがない。生きてゆくための衣食の資材は、人の一生に備わった分量がある。求めたからといって得られもしないが、また求めないからといって得られないものでもない。まさしく自然にまかせて、心をつかってはならない。
「故僧正云わく、衆各々用ゐる所の衣粮等」
人はめいめい、一生に備わった衣食がある。いくら考えてみたところで出てくるものでもなく、手に入れようとしないとやってこないというものでもない。さがし求めないでも、命を支えるだけのものは、天然自然にそなわっている。
「学道の人は先ずすべからく貧なるべし」
少しでも財物を貯えようと思うことこそ大問題である。わずかの命を送る間のことは、どう思いめぐらして貯えなくても、天然自然にあるものである。人皆めいめい持って生まれた食分、命分がある。天地がこれを授けてくれる。自分が走り回って求めなくても、必ずあるものである。

上記の道元の言葉は、実は伝教大師最澄の有名な御遺誡を思い起こされる。

道心の中に衣食あるなり 衣食の中に道心なきなり

「少欲知足」という、このブログ記事の趣旨からは、少し外れてしまったかも知れない。

仏教ブーム

ここ1年のマイ・ブームは、仏教研究です。かれこれ数十冊の仏教書を読んでいます。「スッタニパータ」「ダンマパダ」といった原始仏典から、龍樹(ナーガールジュナ)や世親(ヴァスバンドゥ)などのインド大乗系諸学、「無門関」「碧巌録」「臨済録」などの中国禅宗もの、そして日本の道元、親鸞、一遍などを読んでいます。その中で、日本の書物から、気に入った文章を紹介したいと思います。

往生とは、このままで法界に容れられているという自覚である。
宇宙とひとつになっているという信念である。
死ぬも、生きるも宇宙の命法のほかにはみ出る恐れはないから、
その流転のままに身を委ねて安んずる心である。
宇宙の命法に帰依する心である。
倉田百三「法然と親鸞の信仰」(下)

ただわが身をも心をもはなちわすれて、
仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、
これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、
こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。
道元「正法眼藏・生死」

 

災難に逢う時節には逢うがよく候。
死ぬ時節には死ぬがよく候。
是はこれ災難からのがるる妙法にて候。
良寛「三条大地震の見舞い」