少欲知足

江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、良寛の句に、大好きなものがある。

焚くほどは 風がもてくる 落葉かな

自分ひとり生きていくくらいの衣食は、自然と手に入る、というような内容。
この句を知ったときに、なぜかキリスト教の聖書の言葉が思い浮かんだ。次の部分だ(中略を含む引用)
マタイによる福音書第6章(山上の垂訓)より

だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。それなのに、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。野の花がどうして育つのか、考えてみなさい。働きもせず、つむぎもしない。明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのだから、あなたがたには、それ以上に良くしてくださるはずだ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようか、と言って思い悩むな。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは、明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

曹洞宗開祖道元禅師の弟子に懐奘という僧がいる。道元禅師の言葉を懐奘が記した「正法眼蔵随聞記」のなかで、道元は次のようなことを語っている。(水野弥穂子の現代語訳から秀峰が抜粋・編集)

「学道の人、衣食を貪ることなかれ」

仏道を学ぶ人は、衣食をむさぼってはならない。人はめいめい一生にそなわった食べ料があり、寿命がある。分を超えた食や寿命を求めても得られるものではない。出家人というものは、仏道を学ぶ功徳によって、命はもとより、食べ料も尽きることはない。
「学道の人、衣粮を煩はすことなかれ」
仏祖たちの中で、一人たりとも飢え死にし、凍え死にしたためしは、いまだかつて聞いたことがない。生きてゆくための衣食の資材は、人の一生に備わった分量がある。求めたからといって得られもしないが、また求めないからといって得られないものでもない。まさしく自然にまかせて、心をつかってはならない。
「故僧正云わく、衆各々用ゐる所の衣粮等」
人はめいめい、一生に備わった衣食がある。いくら考えてみたところで出てくるものでもなく、手に入れようとしないとやってこないというものでもない。さがし求めないでも、命を支えるだけのものは、天然自然にそなわっている。
「学道の人は先ずすべからく貧なるべし」
少しでも財物を貯えようと思うことこそ大問題である。わずかの命を送る間のことは、どう思いめぐらして貯えなくても、天然自然にあるものである。人皆めいめい持って生まれた食分、命分がある。天地がこれを授けてくれる。自分が走り回って求めなくても、必ずあるものである。

上記の道元の言葉は、実は伝教大師最澄の有名な御遺誡を思い起こされる。

道心の中に衣食あるなり 衣食の中に道心なきなり

「少欲知足」という、このブログ記事の趣旨からは、少し外れてしまったかも知れない。